Hot Tequila Brown / Jamiroquai

 聴くことで強制的に特定の精神状態にしてくれる音楽はたくさんあります。

 楽しくなったり、関わってくれる人々に感謝したくなったり、革命を起こしたくなったり、もう少し頑張ってみようと思えたり、とかですね。そして、そのどれもがエネルギーを充填してくれます。なくなっていた気力やモチベーションどこからか湧いてくる。私もそんな曲たちに助けられて日々生きています。

 

 しかし、エネルギーが無から生み出されることはありません。やる気が湧いてくる曲は、実は自分のなかに残っていたエネルギーを使える形に練ってくれているだけだったんだと気づいたのは最近です。気力を充填してくれる曲を聴いても、本当に底をついてる時は、空のやかんを火にかけているようなもので、ジリジリと疲れが滲むのみ、やがて曲を止めざるを得なくなります。

 じゃあそうなったら音楽から離れるしかないのか。私はそんな状態でも聴くことのできる特異な曲をほんの数曲だけ知っています。

 

 その1つがHot Tequila Brownです。

 この曲は借りてきたCD「Dynamite」を車で流していて出会い、最初の5秒を聴いただけで別世界へ連れて行かれました。別世界へ連れて行かれる曲はたくさんありますが、この曲の特異性は、その異世界で何もしなくていいというところです。笑ったり、後悔したり、励まされたり、といったことは要求されない世界。表情筋は一切動きません。優しく人生に寄り添ってくれるというわけでもない。ただ流れている音楽。しかし、つまらない曲じゃない。別世界へは確かに連れて行かれる。

 Jamiroquaiは「Virtual Insanity」や「Digital Vibration」が特に印象に残っていて、無機・宇宙・デジタル・バーチャルといったキーワードが頭に浮かぶアーティストですね。ジャンルはアシッドジャズらしいですが、他のアシッドジャズを知らないので、私にとってのジャンルはJamiroquaiです。ジャズっていいますけど、酒場のピアノで奏でるあのジャズとイメージ重なりません。

 そんなJamiroquaiの曲のなかでもこの曲は異常です。一緒に歌いたいとも思わないし、踊りたくもならない。表情筋も動かない。じゃあ何のために聴いてるんでしょうか。

 

 この曲は何も要求してこない。その何も要求してこないということが、とても優しいことなのではないでしょうか。現実世界は様々な要求の連続で、優しさすら同等の優しさを要求しています。励まされたら、頑張らなきゃいけないという負担も発生します。世の名曲のエモいメロディで感情を振るわされて行動する決心がついても、社会のなかで行動することは常に場の要求に応えることを伴うので、やはり負担はあります。

 この曲はいわばゲームにおけるPAUSEのようなものです。現実世界の難しい判断を後押ししたりはせず、ただただ一旦保留してくれる。一切エネルギー消費しないまま時間は過ぎるので、気力も徐々に回復するでしょう。これは実はすごいことで、何も聴かずにいると、あれこれ考えてしまって消耗する。全部吹き飛ばす発散をしても、いずれ現実に戻った時余計にきつい。別世界に連れて行くのに何もせずにいさせてくれる、私にとって極めて特異な曲なのです。

 

 何もしなくていいということは、私はいてもいなくてもいいということです。でも音楽は鳴っている。私が立ち止まっても、世界の時間は進んでいる。立ち止まっても、時間の進む世界に参加していることが許されている。こんなに優しいことはないですよ。Jamiroquaiの宇宙的イメージはこういったところにもありますね。

 また、休む間もない要求の連続は情報社会化の加速でより徹底的になっていきます。Hot Tequila Brown が必要とされるのはデジタル社会ならではで、こちらもJamiroquaiのイメージです。情報社会で、人間や社会がどうなっでしまうのか、Jamiroquaiには全て見えているんじゃないかとか思ってしまいます。

 

 またこの曲は何もしなくていいですが、何かしたいなら1つだけできることができます。中盤から登場する「Sunshine, shine down」を一緒に唱えることです。口を少しだけ動かしてつぶやいてみると、宇宙の流れに参加できます。この宇宙で私たち人間にできることなんてこの「Sunshine, shine down」で声を揃えることくらいなんでしょう。ですが、曲終盤になれば、私たち人間のできることも案外馬鹿にできないかも知れないと思えますよ。

 そして終わり方はフェードアウト。初めて聴いている時から、終わりがフェードアウトであることを確信していました。フェードアウトはつまり、この音楽はずっと続いていくということです。宇宙の歴史は、人間の合唱を伴って。

hectopascal / 小糸侑(高田憂希)&七海橙子(寿美菜子) 

 このブログは私が大好きな曲たちの感想を誰かと共有したくて書きます。

 名曲の形には様々あると思います。聴いてて「これは名曲だ」と思うものもあれば、過去の情景が鮮やかにフラッシュバックするもの、なかには街を歩きながらイヤホンで聴きだすと、聴いている時間一時的に目の前の現実の認識をまるごとジャックされるようなものもあります。

 これは他の人もそうなるんだろうか?共感されても嬉しいし、同じ曲で全然違っててもとても面白いですよね!

 

hectopascal / 小糸侑(高田憂希)&七海橙子(寿美菜子) 

 

 (注)アニメ内容のネタバレ注意です。

 

 言わずと知れた名作TVアニメ「やがて君になる」のEDです。ポップで可愛らしい曲ですが、人前や他のことを考えている時、作業中に聴いてはいけない曲です。やが君鑑賞時の胸が張り裂けそうになる感覚が蘇って何も手がつかなくなります。

 やが君というアニメは私の心の中をめちゃくちゃにかき回していった作品です。誰のことも特別に思えない小糸さんと、そんな小糸さんを好きになった七海先輩の関係が変化していく。hectopascalはEDなので毎回観終わりに聴くことになるのですが、物語が進むに連れてこの曲を聴いている時の気持ちがどんどん変わっていきます。そしてこんなに苦しくなるとは誰が予想できたか。

 

 初めて聴いた時の感想は「桜Trick」のOPと似ている、でした。音程が上下して電子音が鳴り、思わず首を揺らしてしまうノリノリな曲といいますか。百合アニメはこんな曲をつけるのが伝統になったのかと思ったものです、もちろんいい意味で。その時は私のなかでは百合アニメといえば「桜Trick」で、そのOP「Won(*3*)Chu Kiss Me!」もちょくちょく聴く曲です。初めて聴いている時には、hectopascalは楽しくなりたい時に聴く曲の一つになるだろうという予感がしていました。

 

 しかしやが君はのほほんと観ることを許さない作品でした。七海先輩は好きだと伝えてくるのに、小糸さんは同じように返すことができない。返せるようになりたいのに、そうはなれない。焦燥と絶望が小糸さんの胸に溜まっていく。

 このEDのムービーはシンプルで、概ね静止画が2人の糸電話をたどって横に流れていくというもの。ですが「君は逃げてしまうかな」の歌詞と同時に七海先輩の口が動き、小糸さんの顔が紅潮するんですよね。そのシーンはまるでお互いを好きでいる恋人同士のよう。本編を観ながら、いつか小糸さんが素直に七海先輩を好きだと言えるようになって欲しい(でもそううまくいくとは思えない)と願っている視聴者としては、その一瞬のシーンは願いが叶う可能性を示してくれているようでした。

 

 しかし物語は進み、小糸さんは七海先輩を好きになる。だが、それを伝えることは七海先輩との関係を根本から崩してしまうことだった。七海先輩の脳に巣くう強烈な「こうしなければ」という観念はそう簡単に崩せるものではありません。この残酷すぎる状況のなか、それでも小糸さんは物語終盤、たとえ関係が終わってしまっても七海先輩を変えて救うことを決意します。観ていた私は、もうどんな展開でもいいからこの2人が素直に両想いになって幸せになってくれ、と切に願って胸が爆発しそうになっていました。

 ここに至ってEDの「君は逃げてしまうかな」のシーンの小糸さんの反応は、ただの素直な反応なんですよね。小糸さんは七海先輩の言葉にドキドキしている、だって好きだから。でも実は小糸さんが想いを伝えたら崩れてしまう幻の両想いなんです。そうと知ってこのシーンを観ると、切なすぎて正気じゃいられません。

 

 思えばこの曲、ノリノリではありますが底抜けに明るい曲ではありませんよね。何度も聴いているとどこか淡々と歌い上げている印象があります。2人の定まらない関係のように、明るい方向へも暗い方向へも、聴くときの精神状態で変化する。だから、アニメを観終え原作コミックスも読み終えた今、曲だけ聴くと、あらゆる思いが全部同時に来て心のなかがぐちゃぐちゃになるのだと思います。私は未だにこの作品について心の落ち付け所を見つけていないようです。

 冗談抜きで作業用BGMなんかに組み込んではいけない曲ですよ!流れてくるだけで何も手につかなくなる、やが君の持つエネルギーがそのまま音楽になったようなものすごい曲だと思います。